あの頃の建築
あの頃の建築
昭和55年にはどんな建築工事なんだろう興味深い雑談です。
私は、その頃工業高校を卒業し就職しました、大手のゼネコンで試験もあり面接もあり
緊張しましたが、そのうち現場配属となり一現場員として使っていただきました。
まずは、現場の清掃からですが所長、次長は多忙で職人さんにいろいろと教えていただき
ました。いかに埃を立てずに掃き掃除をするかから、社会人の心得などから酒の飲み方など
危険な現場ですので緊張感を持っておりまいたが、あるときはシートパイルを抜く機械が隣の家に接触してしまったり、足場のポリクレーンがケーブルの不具合で制御不能になり急いで最下階のブレーカーを落とし事故にならずにすんだ事。も良く覚えています。型枠大工さんは手間が一日4万円、自分の給料が残業は無制限で27万、高卒ですよ何もわからない素人でも優遇されていますね、現場も変わり公共施設の大きなところでは来ている職人が刺青を入れているような人ばかりで、休憩所では花札、ちんちろ、そんなことはどうでもいいのですが配筋検査で主筋が足りないのはざらで、18の自分が職人に指摘しなまいきにも怒鳴っていた、そんな若いうちから安心して眠れないような世界に居りました。
杭はディーゼルハンマーだし今と違ってトラ使わず目見でしたコンクリートの強度も今と違ってべーす180補正そこそこ冬の打ち込みは寝ずの番をします、凍らないためにです
たきびですよたきび、枠の室内で燃やしました、それでいいのですから、役所の工事ですよ
同じ監督業の同世代の多くの人は同じレベルの話をしています。
そして、神保町の設計事務所、身内の推薦で入れていただきましたが、給料は10万円残業はしょっちゅう、徹夜もしょっちゅう鉛筆で消しゴム、平行定規、三角定規、刷毛ホルダー
青焼きですね。給料は安くも飲ましてもらえました、旅行もありました、とても良い先生でした(一級建築士の先生)すべて私がわがままでとっても反省しています。
地元の建設会社にお世話になったのもよく覚えています、そこでは自社設計施工社長はすごく良い人で大人のお手本のようなすばらしい人物でした、当時は木造建築から鉄骨3階、4階のほうが流行しており、その構造も施工方法も木造と違うので出来る工務店が少なかったのでしょうが後の請負監督業(個人事業者)にもつながっていきます、有難いことです。
つぎに出会いました社長は一級建築士設計も施工も出来るし構造計算も出来る、しかも職人さんにも恵まれている、けんかは強い、豪傑です、酒はあびる様にのみますが、文句も言いますが、きつくいいますが、しっかりした先輩です。私はついにここで良い師匠にめぐり合ったと思います。いろんなことを教わりました。建築の原点を作っていただきました
感謝の気持ちはもう届かないですが、新築木造現場立て方いくつも経験しましたが、かけやで臍に入れる際眉間に思いっきりかけやがあたり5センチほどのたんこぶが出来たのを良く覚えています。その後は個人独立から会社設立に詳細はまたね。
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